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天下の奇祭宮田祗園祭

江戸時代から続く天下の奇祭「宮田祇園祭」. クライマックスは神輿を幾度となく石段から投げ落とし破壊します。その神輿の破片を屋根に上げると厄除けなどのご利益があるといわれています。 その他、屋台、祇園囃し、阿波踊りなども祭りを盛り上げます。

天下の奇祭 宮田祗園祭

江戸時代から続く伝統の祭りで、近隣市町村からの見物客で沿道は埋め尽くされます。祭りのメイン「あばれみこし」は村を荒々しく練り歩き、神社の石段の上から打ちおろされ破壊されます。

日程 7月18日 土曜日

屋台(祇園囃子山車) 午後1時15分〜午後3時50分まで
子供神輿 午後4時30分から午後6時30分まで
あばれ神輿 午後5時15分から午後10時半頃まで
クライマックス 津島神社前での神輿破壊は午後10時頃
阿波踊り 午後6時20分から午後9時頃まで
宮田太鼓 午後6時30分から8時30分頃まで
YOSAKOI(よさこい)ソーラン(阿波踊りの中で)

煙火大会 午後7時45分開始、午後9時頃まで
(打上げ花火、スターマイン)
午後10時〜10時30分頃まで 仕掛け花火(大三国2基、ナイアガラ、焼き字)


● 2011年宮田祇園祭 あばれ神輿 写真

● 2011年宮田祇園祭 屋台 祇園囃子 写真

● 2011年宮田祇園祭 阿波踊り 写真

● 2011年宮田祇園祭 子供みこし 写真

● 2011年宮田祇園祭観光ポスター用写真募集要項


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祗園祭の起こり

平安時代に各地で流行した疫病は、政治的な闘いに敗れて処刑された人々の祟りであるとされました。都(平安京)では疫病退散を祈願するため、それらの御霊(怨霊)を祀りましたが鎮めることができず、素戔鳴尊(すさのおのみこと。神仏習合により牛頭天王(ごずてんのう)とも称する)を祀る祇園社(のちの八坂神社)に頼ることになりました。

祇園社の祭事は当初は素朴なものでしたが、貞観年間(859〜877)になると、神泉苑に当時の国の数と同数の鉾66本をたてて御霊会を行い、祇園社から神輿を送り出すようになりました。この祇園御霊会が祇園祭のはじまりで、その後、山鉾が登場するなどして華やかさを増し今日まで続けられてきました。

なお素戔鳴尊(牛頭天王)信仰では、「西の八坂神社、東の津島神社」といわれ、厄除け、商売繁盛、授福などにご利益があるとされます。江戸時代には伊勢参りとセットで参拝する慣わしがあったほど著名な神社で、全国に3千の末社があるといわれています。


宮田村の津島神社の歴史

宮田村の津島神社は、江戸時代の天保年間(1830〜1842)に尾張(愛知県)(津島牛頭天王社)を勧請したもので、天王社とも称し、祭典を祇園祭と呼んでいます。津島神社の名は明治初年の神仏分離に伴い、改称されたもので、昭和初期までは天王社と称されることが多かったようです。今日でも「御天王様」と呼んでいる方もいます。

この天王社は疫病、御霊(怨念)を鎮め、後には水神や稲作の神ともされた素戔鳴尊と、火除けの神である火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)を祀ったもので、宮田宿の南端に置かれました。

当初は観音堂がある現在の小学校の南に建てられましたが、明治29年(1869)に、宮田尋常小学校の建設にあたって、現在の地へ移転されました。また階段の上にある鳥居は、太田切川から巨大な花崗岩を切り出し、明治34年に健立されたものです。津島神社の移転と竣工もこの年の辺りであったと思われます。

昭和になると、敷地が狭いことや本殿が西を向いていると歓迎されないということから、神社の方向を変更するため、北側の民有地の寄進を受け工事が行われました。昭和8年の4月と9月に石灯籠が献納されているのは、この工事に関係するものであると思われます。


天下の奇祭・祇園祭

祇園祭は毎年7月の第3土曜日、日曜日の行われています。昭和56年までは7月14日、15日に行われていましたが、日付を決めてしまうと平日になる場合があり、翌日の仕事に支障をきたさないよう変更されました。

祇園祭は「宵祭}と「本祭」に分かれており、有名な「あばれ神輿」は「宵祭」の」中で行われ、神社周辺の商店街は毎年多くの人で賑わいます。


祇園囃子屋台

まず「屋台」が神輿の通る道をお清めしてから、神輿の出発となります。宮田村では山鉾でなく、天王社ができた天保時代の経済状況を反映しているかのような簡素な屋台です。屋台を引くのは小学校6年生までの女の子。子供達(男の子を含む)が「祇園囃子」を演奏します。祇園囃子の曲は時代によって変化してきましたが、その後祇園囃子保存会によって守られ、現在演奏されているものが本来のお囃子です。

祇園囃子屋台が終了すると「子ども神輿」が出発します。現在は町一区、町二区、町三区の小学校6年生までの男の子が担当しています。

かっては商店の通りごとに子ども神輿が出ていましたが、市街の人口減少で3基になり、平成12年からは2基から3基となっています。

見た目よりも重い神輿ですが、大人が担ぐあばれ神輿と同じように、石段の上から何度も落とし粉砕し、破片は担いだ子供達が分けて家に持ち帰ります。


大人神輿

大人神輿は成人の男性しか担ぐことができません。桧でできた神輿に御神体の素戔鳴尊を乗せて5時間近く街を練り歩いたのち、神輿は神社へと戻り、次に神主を先頭に氏子総代が続いて、神輿から御神体を降ろして社殿へと移動します。

その後、神輿は神社の階段の上から何度も叩き落とされますが、その破片を家に持ち帰って屋根の上にあげておくと、厄病除けや火災除けになるといわれており、集まった群衆が競って破片を奪いあいます。最後に真柱一本になるまで打ち壊された後、神輿の真柱は社殿へと献納されます。

神輿を打ち壊すことで祇園祭が成就すると考えられており、神輿を壊さなかった年には悪い病気が流行したといわれ、戦時中も休むことなく続けられてきました。

かつては神輿に釘が使われておらず、街を一周して津島神社に戻る途中、現在の仲町の交差点辺りから既に壊され始め、津島神社へ到着する頃には真柱を残してほとんど打ち壊された状態になっていましたが、明治時代から神輿に釘が使われて壊れにくくなり、神輿を神社の石段の上から落して壊すようになりました。

今日の祗園祭のスタイルは、ここから始まったものです。神輿を打ち壊すという荒々しい祭典であることから、いつの頃か「あばれ神輿」と呼ばれるようになり、今日に至っています。


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