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深き歴史と文化

信州宮田村の歴史や民謡、伝説など。伊那街道や宮田宿、遺跡などをご紹介。

伊那街道十六宿

別名三州街道とも呼ばれ中山道の裏街道として利用されました

伊那街道は中山道の塩尻宿から南下して伊那谷に入り、天竜川の西を通っていた古道で、辰野から下伊那の根羽村までの間をいいます。中山道の脇往還として賑わい、中馬(馬による物資運搬)道としても利用されました。

戦国期、武田信玄は三河攻略に備えて伊那谷に軍用路を整備しました。これが伊那街道の原型です。天正十年(一五八二)に飯田城主・毛利秀頼がこれに手を加え、その後京極高知が工事を引き継ぎ、文禄二年(一五九三)に完成しました。

慶安二年(一六四九)には飯田城主の脇坂安元が大規模改修を行いました。これが明治以降の三州街道及び国道153号の原型になります。伊那街道には十六の宿場が置かれていました。この伊那街道十六宿が定まったのは延宝二年(一六七四)とされています。

※季刊歳時記みやだの里より掲載


宮田宿の賑わい

宮田宿は南北に300メートルの街並みが続き、道幅は10メートルもありました。これは寛文二年(一六六二)と明和五年(一七六八)の大火で拡幅されたものと考えられます。幕末の文久二年(一八六二)の史料に、『宮田宿 家数五七軒 人口二四六 宿役人一六 伝馬備人足一六 馬士一三 馬二五疋 大田切瀬越人足一三』とあります。

宿場としての規模の大小は判断できませんが、中央を用水が流れる10メートルの街道などを考えると、当時の賑わいが想像できます。宿場は人や物が行き交う要衝の地でした。今でこそインターネットなどで世界中の情報にふれられますが、かつての情報は人の足でもたらされるものでした。

宿場に暮らす人々は、常に新しい情報に接し、それを自分たちの暮らしに活かし、文化を拓いてきたのです。進取の精神もまた、宿場の歴史が培った遺産といえるでしょう。

※季刊歳時記みやだの里より掲載


幕末期の騒乱

明治期の転換期に伊那谷を揺るがす二つの出来事がありました

■水戸天狗党の通行

幕末期、徳川御三家の水戸藩において早くから佐幕派と尊王攘夷派の対立を生じ、勤王派は藩の大勢に敗れると、武田耕雲斎を主領とした水戸天狗党はこの上は京都に上って一橋慶喜に衷情(ちゅうじょう)を直訴すべく一行八百数十名は元治元年(一八六四)十一月、佐久の内山峠越えして信濃路に入った。

同月二十日には幕命をうけた松本・諏訪藩の連合軍と和田峠南で激戦を交え、二十二日午後には宮田宿を通過していったのである。

このとき抜身の水戸浪士を戦々恐々として迎えた宮田宿の表情が覗える。

浪士軍が伊那谷をえらんだことには理由があった。その一つには、木曽路には福島関所があり、かつ尾張藩領で強い抵抗が予測される。二つには伊那は平田学派が多く、勤王の思想が強かったことがあげられている。間道を首尾よく美濃に通過できたのも伊那の勤王家の配慮が大きかったのである。

■偽官軍・赤報隊事件

戊辰戦争さなかの慶応四年(一八六八)二月突如として南から伊那街道を相楽総三率いる赤報隊が進軍してきた。宮田宿には二月五日に白心寺にて本営を構えた。宮田宿は長い道中の一泊に過ぎず、数日間の狼狽に終わったのであるが、その背景をなしていた当時の世情は伊那の僻村までゆり動かした明治維新の一幕である。

このとき高遠藩の御触れにより、宮田宿は勅使ということで鄭重に出迎えたのであるが、それが旬日の後、偽勅使・偽官軍であったとは村民の落胆が思いやられるのであった。

※宮田村誌上巻より抜粋


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